Dawn of the Kids

『キン肉マンⅡ世』世代のブログ

テリー・ザ・キッド 親に愛されてたらスカーフェイスに勝てた説

以前からの疑問というか、「『キン肉マンⅡ世』のこの部分、実はこういうことなんじゃないか?」と思っていることがいろいろとあるのでブログを開設しました。

キン肉マン』の続編、息子世代の物語である『キン肉マンⅡ世』は主に、①親世代が直面する「中年の危機(老いへの恐怖と自己同一性の揺らぎ)」と、②決して子どもの視点からは語られない「親に愛されないということ」の2つを題材としたいくつかのエピソードから成り立っていると私は考えています。

記事タイトルの通り、今回は後者に関する記事です。

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「説」ジェネレーターさんにて作成。

テリー・ザ・キッドが公式戦初の敗北を喫した試合であり、彼にとっては最後のシングル戦となってしまっている、このvs.スカーフェイス戦について、お伝えしたいことがあります。


テリー・ザ・キッドというのは、『キン肉マンⅡ世』の世界に生きている14歳(推定)の正義超人であり、
キン肉マン大親友ことテリーマンと、雑誌記者である翔野ナツ子との間に生まれたテキサスブロンコです。
なにせ”Ⅱ世”なので父親との確執がいろいろとありますが、根は真面目で朗らかな子です。
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ゆでたまごキン肉マンII世~オール超人大進撃~』1巻, 集英社, 2002年, p.43

……とだけ聞けば、↑のようなキッドを思い浮かべたかもしれませんが、これは平行世界のテリー・ザ・キッドです。
本編のキッドはもう少し鬱屈した性格をしていますね。
今はその訳を語りませんが、まあおいおいわかります。
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ゆでたまごキン肉マンII世』5巻, 集英社, 1999年, p.166

細い画像ですが、今出てきたのがスカーフェイスです。
彼がどのような超人であるかは以下の通り。

パワーファイターでありながら、テクニックにも優れ、博識かつ心理戦を得意とした頭脳ファイターという多面性をもつ。
『学研の図鑑 キン肉マン「超人」』学研, 2019年, p.67

キン肉マンⅡ世』最強格の1人との呼び声高いスカーフェイス。彼は純粋に強いだけでなく、「心理戦」と銘打って対戦相手のコンプレックスを的確に刺激することができます。

キッドは肉体的にも精神的にもスカーフェイスとの試合で完膚無きまでに叩きのめされ、5巻にしてどうしようもない挫折を味わいます。もうこの子はリングに立てないかもしれないな、と感じられるほどに。(まだ5巻なのに……)
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ゆでたまごキン肉マンII世』5巻, 集英社, 1999年, p.180

このブログは格闘評論を目的としていないので、2人の格闘技術やパワーについては触れません。
また、キッドの技がテリーマンから受け継いだものばかりでオリジナリティが無いことにも注目しません。それはキッドの弱さではなく、彼をそんな魅力の少ないキャラクターに仕立て上げたゆでが悪いだけだし、バトル漫画においてオリジナリティの無さが必ずしも負け筋になるわけではないと思うからです。風林火山は基礎技の連撃であり、キン肉バスターだって元々はプリンス・カメハメから伝授された技なんですから。

よって、今回の本題は以下のシーンになります。
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ゆでたまごキン肉マンII世』5巻, 集英社, 1999年, pp.170-172

スカーフェイスの攻撃により口腔から出血したキッドは、テキサスでの両親との思い出に浸って現実逃避をしてしまいます。なぜかそれをスカーフェイスに言い当てられ、あまりにも図星でさらに動揺するキッド。親の存在が明かされず孤児のように描写されるスカーフェイスとの対比でもあり、キッドは「親に甘えている」弱さがあるかのように見えます。そりゃ勝てないわな、と思うかもしれません。

でもちょっと待ってください。これって本当に良い思い出ですか????
もう一度回想シーンを見てみましょう。
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ゆでたまごキン肉マンII世』5巻, 集英社, 1999年, p.171

もしかしたら未就学児かもしれない小さな子どもである自分が口から血を出す大怪我をしているのに両親が朗らかに笑っていた思い出、良い思い出になり得ますか???????
何笑ってんだ、草噛ませて満足するな、保護者として他にも言うこととかやることとかあるだろ、何なんだ? キッドくんもキョロキョロしちゃったじゃん。「大丈夫?」「痛かったね」くらい言えないのか??

みなさんにはありますか? 子どもの頃、自分としてはかなり真剣だったり必死だったりしたのに、大人には一笑に付されて、とても悲しかったor怒りをおぼえた記憶が……
大人になってから思い出してみれば確かに他愛のないことだったし、笑っちゃう気持ちもわかるけど、あのときは本気で傷ついた、そんな記憶が……

そう、この記憶は14歳のテリー・ザ・キッドにとって「良い思い出」ではないはずです。
これではむしろ「親に傷つけられた思い出」です。もしかしたら彼自身はそのことに気がついていないかもしれませんが……

ただでさえ劣勢の試合展開なのに、唐突に過去の悲しい記憶が甦ってしまったら、立ち上がれなくなってしまいますよね。自分は無力であることを思い知らされ、こいつには勝てないのではないかという不安に苛まされて当然でしょう。

子供時代に親からしっかりとした愛情を与えられず、ひどく扱われてきた人間は、みな例外なく――仕事に有能で、成功している人ですら――内面には無力感と不安感を抱えている。
スーザン・フォワード, 玉置悟(訳)『毒になる親』毎日新聞出版, 1999年, p.35

キッドの敗因は「親のことを思い出して現実逃避してしまう甘っちょろさがあったから」ではなく、「傷ついたときに自分を奮い立たせるような記憶が無かったから」なのではないでしょうか。

これだけではただのいちゃもんなので、「親に愛されていた記憶のおかげで劣勢から巻き返したシーン」もご覧いただきましょうか。
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ゆでたまごキン肉マンII世 究極のタッグ編』14巻, 集英社, 2008年, p.30, 32

バッファローマンのロングホーンに体を締め付けられる痛みが、かつて父親に抱きしめられたときの温もりとリンクし、力がみなぎってくる万太郎。Love is Powerですね。
口から血が出て変な記憶が蘇ってしまったキッドとの差は歴然でしょう。
自分は父親に愛された、その確信が万太郎を強くしています。

愛された万太郎/愛されなかったキッドの対比はこれだけに留まりません。
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ゆでたまごキン肉マンII世 究極のタッグ編』12巻, 集英社, 2008年, pp.180-181

リングの鉄柱を使用した凶器攻撃を仕掛ける幼い万太郎に対し、キン肉マンは鉄柱(つまり万太郎の過ち)のみを蹴り落とし、正しい教えを復唱させ、よくできた!とばかりに万太郎を抱きしめます。愛情を感じますね。正しさとは何か、正義超人たるものどう生きるべきか、しっかり学ぶことができるしつけと言えそうです。
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ゆでたまごキン肉マンII世』1巻, 集英社, 1998年, pp.67-68

身勝手なわがままを言う幼いキッドに対し、平手でぶん殴るテリーマン。確かにキッドの主張は正しいとは言えませんが、ぶん殴らなければならないほどでしょうか。キッドにとってはただ「自分よりもキン肉マンとの友情や思い出を優先された」と感じただけの出来事だったのではないでしょうか。
また、体罰に教育的効果は無いというのが2020年の一般的な考えであることは言うまでもありません。
(この件はあまりにもあんまりなので、後日別記事にて論考します)

この違いは2人の人格形成に多大なる影響を与えたはずです。

もし親との関係が基本的に子供の安定した情緒をはぐくみ、人格を大切にするものであるなら、その子供は情緒的に安定した子供に育ち、世の中は基本的には自分を受け入れてくれる場所であるという感覚を持った人間になることができる。そしてそのようなポジティブな感覚を持つことにより、対人関係においても他人に心を開き、自分の弱点を外部にさらしても比較的平気でいられる人間になれるのである。
だがその反対に、子ども時代に緊張と不安にさらされ、苦しみを強いられてきた人間は、成長するとともに、自分を防衛するために常に心身を硬くこわばらせた人間になっていく。それは精神的な鎧をまとっているようなものだ。しかし、そうやって自分を守っているつもりでも、それは他人を近づかせないということであり、自分を牢獄に閉じ込めているようなものなのである。
スーザン・フォワード, 玉置悟(訳)『毒になる親』毎日新聞出版, 1999年, pp.136-137

長々と引用してしまいました。
前者は万太郎のパーソナリティにかなり近いですよね。情緒的に安定しているかどうかは微妙ですが、彼は常に自身が受容されているという認識を持ち、自分の弱さをさらけ出すことにためらいがありません。『キン肉マンⅡ世』という漫画はそんな彼をどちらかといえば嫌な奴として描きましたが、楽しく生きていくためには多少のわがままさがあった方が良いということに、みなさんも長い人生の中で気づいたのではないでしょうか。まだ気がついていない人は今気がついてください。
万太郎は親に愛されていたから、自分は他者に愛されて当然だと知っていて、だからこそ他者に愛される存在として育つことができました。

さて、後者はどうでしょうか。初登場時のテリー・ザ・キッドそのものではないですか?
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ゆでたまごキン肉マンII世』1巻, 集英社, 1998年, pp.57-58

何と言うか、こんないやみな振る舞いをしていたら嫌われるに決まってるんですよ、誰からも愛されないんです。まだ14歳(推定)なので多少イキったところはあるにしても、それくらい理解できないテリー・ザ・キッドではありません。他者を受け入れないことで自分を守る代償として、彼は孤独の中に生きてきたわけです。

そんなキッドの心に変化が起きるきっかけとなった出来事がこちらです。
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ゆでたまごキン肉マンII世』1巻, 集英社, 1998年, pp.75-76

この涙の理由をみなさんはどのように解釈するでしょうか。
キン肉マンの性格が、思っていたような自己中心的なものではないことがわかり、逆に自分のこれまでの思い込みの身勝手さを痛感して反省したから?
キン肉マンテリーマンの献身に感謝していることを知って、二人の友情に感銘を受けたから?

私の解釈は「初めて愛に触れたから」です。

テリーマンキン肉マンとの友情を教えたとき、キッドがされた仕打ちは何でしたか? 純粋な暴力でしたね。キッドがそのとき学んだ”愛情”はただの暴力であり理不尽です。それで愛を知ることなど到底できません。

一方、キン肉マンテリーマンとの友情を教えたときはどうでしょう。キン肉マンはキッドの傷の手当てをしてくれましたね。キン肉マンを侮辱し、万太郎に怪我をさせて悪びれもしなかったキッドに対してです。
それだけではありません。キン肉マンテリーマンとの友情によって勇気づけられたことを語ります。きっとこれが”愛情”の本質です。愛されていた確信があれば、強く生きていくことができます。傷ついて倒れそうなときには、愛された記憶が自分を奮い立たせてくれるでしょう。
愛するとは何か、愛されるとは何か、キン肉マンとの出会いによって初めて、キッドは愛に触れることができたのではないでしょうか。

はたしてテリーマンはこれと同じことをキッドに伝えようとしていたでしょうか。
テリーマンはキッドと、愛し愛された記憶を育むことができていたでしょうか。

「毒になる親」に育てられた子供は、愛情とは何なのか、人を愛したり愛されたりするというのはどういう気持ちになることなのか、ということについてよくわからず、混乱したまま成長する。その理由は、彼らは親から、”愛情”の名のもとに”愛情とは正反対のこと”をされてきたからなのだ。その結果、愛情とは「非常に混乱していて、劇的で、紛らわしいもので、苦痛を伴うことがよくあり、時としてそのために自分の夢や望みをあきらめなくてはならないもの」という認識を生む。だが、心の健康な人間ならすぐわかるように、真の愛情とはそんなものではない。
スーザン・フォワード, 玉置悟(訳)『毒になる親』毎日新聞出版, 1999年, p.311

テリーマンを糾弾したいわけではありません。
少なくとも今夜『テリー・ザ・キッドの夜明け』を読むまでは断言してはいけないと思っています。
ただ、『キン肉マンⅡ世』を読んだみなさんが「キッドは甘やかされて育った二世超人だからスカーフェイスに勝つための精神力が足りなかったのだ」と感じたとすれば、それについてもう少し考えていただきたいと思ったのみです。

キン肉マンⅡ世』アニメ主題歌である『HUSTLE MUSCLE』(作詞:里乃塚玲央)の歌詞は1番が万太郎に向けてのもの、2番はキッドへ向けたものだと個人的には解釈しているのですが、〈傷ついて 倒れそうなときには〉抱きしめることのできる〈遠い日の記憶〉がある万太郎に対して、〈寂しさが 溢れそうなとき〉があるキッドは〈やがて来る奇跡たちに 微笑〉むことしかできない非対称性に、私たちは向き合うべきではないでしょうか。

「毒になる親」から受ける「ネガティブな力」を減らしていくには時間がかかる。けれどもあきらめずに一歩一歩進んでいくことによって、子供のころからずっと押し隠されていた本当の自分を解放し、内面に閉じ込められていた力をしだいに出すことができるようになってくるだろう。「毒になる親」の呪縛から本来の自己を解き放ち、自分の人生を自分の手に取り戻してほしい。
スーザン・フォワード, 玉置悟(訳)『毒になる親』毎日新聞出版, 1999年, p.29

テリー・ザ・キッドのさらなる活躍を願っています。