『テリー・ザ・キッドの夜明け』後編
私もこれを見て キッドはさすがテリー一族の跡取り… と思った!
ゆでたまご『キン肉マン』25巻, 1986年, 集英社, pp.117-118
物理攻撃が効かないとその見た目から明らかに察することができる相手に怖気づくことなくキックやパンチを見舞い、痛いことなんか事前に絶対わかってたのにしっかり痛がるパフォーマンス、テリー一族にしかできない
前回↓に引き続き、キン肉マンシリーズをほぼ知らない友人たちとお送りします。
hxmxbx.hatenablog.com
『キン肉マンⅡ世』特別読切 『テリー・ザ・キッドの夜明け』後編 - キン肉マン - コミック|週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト]から画像を引用させていただくのも前回同様です。
さて、一週間経ち『テリー・ザ・キッドの夜明け』後編が公開されましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
「あれまだ続きあるの?」
ありますよ。前編って書いてあったでしょう、見えてなかったんですか?
見えていたとしても信じたくない気持ちはわかりますが……
煽り文がもうつらいですね。
「男を示しテリー一族の誇りを守れるのか……」じゃないんだよな~~~
”男を示す”も”テリー一族の誇り”もテリーマンがキッドに押し付けた価値観でしかないし、やたらと押し付けてくるのは自分自身のアイデンティティが揺ぎつつあるからに過ぎないと思うんですよね。
そもそも男を示さないと守れない”テリー一族の誇り”は女の子が生まれた瞬間に消え失せてしまいそうですが大丈夫でしょうか。
テリーマンの娘が主人公のスピンオフ、読みたい……
父親に似て向こう見ずで権力を嫌い喧嘩っ早いのに「女の子だから」と格闘技を習わせてもらえず、それなのに父親は超人レスラー時代の思い出話ばかりして過去の美しさにうっとりしているので、とにかくイライラしているテリーマンの娘のスピンオフ……(?)
魔雲天の語る壮絶な過去が『キン肉マン』の完璧始祖編と完全に矛盾してしまったことについては、既に多くの方が指摘しているかと思うので割愛します。
二世のコミックスで育った方がいるのでまたやりたいです。また二世はアメリカ資本だってので世界中にいるのでアニメもやっていただきたいです。#キン肉マン #キン肉マンII世
— ゆでたまご嶋田 (@yude_shimada) 2020年7月26日
コミックスにはこれからもなりませんから今晩必見ですよ。
— ゆでたまご嶋田 (@yude_shimada) 2020年7月26日
一見すると相反しているように思えるこの2つのリプライ、そういうことなんですよねゆでたまご先生!?
『キン肉マンⅡ世』をキン肉マン史から排除するなどという
『キン肉マン』の話をしているとすぐ脱線してしまいますが、シリーズ40年分の蓄積がある以上は避けられないことです。本題に戻ります。
「自分の息子を”作り”!?」
魔雲天が粘土こねて生み出した命なんじゃないですかね……
超人、特に無機物系超人の生殖フローは私たちの想像とはまったく異なるものかもしれないし、文字通り自分ひとりで日曜大工よろしく作った暴留渓(ボルケーノ)なら自分の復讐を代行させるのもアリな気がする、マッドサイエンティストみたいな……いや暴留渓に自我がある時点で駄目ですが……
「でもテリーマンは絶対粘土こねて作ってないじゃん」
テリーマンは粘土こねてないから駄目です。
テリー・ザ・キッドは芸術品じゃないし、テリーマンが作り上げた物でもありません。
キッドは1人の超人であり、誰かに所有されたり支配されたりすることを決して認めてはいけません。
なんでこんな当たり前のこと書かなきゃいけないんですか?
悲しいので「児童の権利に関する条約」全文のリンクを貼っておきます。子どもは保護されるべき存在ではありますが、成人とほぼ同じだけの権利を生まれながらに持つことは国際的に共有されています。
『キン肉マン』世界のテキサスは地獄(前編参照)ですが、この条約が批准されていないはずもなく、ただただテリーマンの認知がヤバい、しかもこれは今に始まったことではないわけです。
ゆでたまご『キン肉マン』37巻, 2010年, 集英社, p.175
息子作ってポケモンバトルしようぜ! ってこと?
そんな……生まれる前からこんな扱いを……キッドは……
これを美談だと思う人がいるのは存じ上げてるんですが、その、それって全人類の何%なんですか…?
なるほどじゃないんだよなあ
親のエゴで子どもを捨て駒にするのは悪魔超人のすることなんだよなあ
親が叶えられなかった見果てぬ夢を子どもに押し付けるのも一種の虐待だとそろそろ公的に認められてもよくないですか?
「キッドが必死に嫌がってるのに全然聞いてくれない」
せめて面白がらないでほしい
「技のひとつも教えてあげてよ!」
何もしなくても子どもは勝手に育つなんて思うなよ!!
必殺技を直接教えたくないにしても、切り株抜きが必殺技の練習になるって一言さえあればキッドはここまで不安な気持ちにならなかったし、こういうことの積み重ねで自信や自己肯定感を失っていくんだぞ!
あと児童を労働力として搾取するのは平たく言って虐待だからな!!!
この悲しみは「テリー・ザ・キッドがちゃんとパパに教えてもらえた回」をみなさんにお見せして発散しようと思います。
ゆでたまご『キン肉マンⅡ世 究極の超人タッグ編』14巻, 2008年, 集英社, pp.157-161
よかった~~ ;)
このエピソードは『テリー・ザ・キッドの夜明け』にもうっすら生きていて、本当に良かったと思います。
タイムスリップして過去へやってきた16歳(推定)のキッドとの思い出のおかげで、10歳(推定)のキッドもタックルだけはみっちりと教えてもらえたようですね。テリーマンは過去の思い出にしか興味がないので……
テキサスという地獄でテリー一族に脈々と受け継がれていく呪い、これが『ヘレディタリー/継承』ってワケ
父親が自分に呪いをかけているだけだと気がつけば、この呪いは解けるでしょう。単純なことですが、気がつかないままさらに何世代も継承され続ける危険性は十二分にあります。
ジェンダーロール(この性別に生まれたからにはこのように生きなければならないという呪い)はこのように固定化されていくので、気がついた人は周囲の人が呪いを解くお手伝いをしていくべきなんですね。そしてかつての『キン肉マン』はそのような物語として機能していたはずです。キン肉マンは友人の呪いを解くために闘ってくれました。
ところで、キッドの想像する”ナメられる”は「両親に関して侮辱される」という部分が大きいようですね。
『キン肉マンⅡ世』という作品において彼のアイデンティティが最後までただただ「テリーマンと翔野ナツ子の息子」でしかなかったことをうっかり示唆してしまったのでしょうか。
あるいは、彼がコンプレックスに感じている事柄がその2つしかないのか。
母親が日本育ちであることを過剰に誇る必要はありませんが、コンプレックスに思うことのない環境であってほしいですね。テキサスは犬のウンチを踏んでも一生ナメられ続けるのでかなり厳しいかと思いますが……
ゆでたまご『キン肉マンⅡ世』2巻, 1998年, 集英社, pp.166-167
なにこのエピソード? テキサスの牧場地帯に住んでて家畜のウンチ踏まん日なんかあるのか??(差別的発言)
よくわからない話をしているうちにキッドがピンチです。
「本当になんでテリーマンは声をかけてやらねえんだ」
わかんない、なんでだろうね……
擁護のしようがないし、前回に引き続きテリーマン vs. 正論です
あ、ああ~~~っ
「今どうすべきかよりも『親に怒られたらどうしよう!?』って不安になるのめちゃめちゃわかる、親に恫喝されて育つとこうなる」
真剣な話なんですけど、「キッドがこんな子でパパは情けない!恥ずかしい!」って怒ったことが一度も無ければこういう台詞は子どもから出てこないと思うんですよ。
それなりに話が通じる年齢になれば、なぜその行動が良くないのかきちんと考えさせたり教えたりする叱り方が必要になります。そんなときにキッドは「親に見捨てられたらどうしよう!」という恐怖心を煽られるような言葉、あるいは自分の意志を圧殺される屈辱的な言葉でひたすらコントロールされてきた可能性があります。
このブログでもたびたび触れている『毒になる親』(スーザン・フォワード, 玉置悟(訳), 毎日新聞出版, 1999年)に「コントロールばかりする親」という章があるので、そこから引用します。
自分が自分でいることに対していい気持ちでいられる親は、子供をコントロールする必要がない。この章に登場したすべての「毒になる親」に共通している点は、彼らの行動の根源には自分自身の人生に対する根深い「不満」と、自分が見捨てられることへの強い「不安」があるということである。(中略)親がこういう状態であると、子供は成人後も自分が何者であるのかというアイデンティティーがぼやけたままはっきりしない。それは、自分と親とは独立した異なる人間であることを実感しにくいからである。そのため、自分が望んでいると思っていることが、いったい本当に自分の望むことなのか、それとも親が望むことなのかよくわからない。無力感に襲われるのは、そのためである。(pp.86-87)
『キン肉マンⅡ世』におけるテリー・ザ・キッドのふがいないキャラクター造形、またそれから想定されるテリーマンの精神状態、すべてこれで説明がつきませんか?
「オレはパパとは違う!」と「オレはやっぱりパパ、あなたの子だ」の反復横跳び、俗に成長リセットと呼ばれるほど揺れ続ける、父親を軸としたアイデンティティ形成。父親に支配されてきた証と言っても過言ではないと思います。
テリーマンは本当は、キン肉マンが大きいトロフィーをもらう方が嬉しいなんて思ってないんじゃないですかね。自分を欺き、息子には美しい部分だけを見せようとしているかのようです。あれが本音だったとしても、実際キッドと万太郎は面識がなかったわけです。つまり、キン肉マンとテリーマンは10年以上も顔を合わせていない時期があった。キン肉マンは大王として忙しくてそう簡単にはキン肉星を離れられないし、テリーマンも息子に恨まれるくらいには忙しかったので、なかなか会えないのは当然です。キン肉星はwi-fiなんか飛んでなさそうだし(偏見)スカイプもできなかったんでしょう。
でも、なんというか、彼らの友情ってそんなもんなの?というがっかり感はありますよね。テリーマンもそうだったのでしょうか。ふたりの友情を美化して、その思い出に浸ってばかりの中年生活を送るほど、彼も孤独で不安だったのかもしれません。
こういう親は心理的に自分の人生が息子の人生に溶け込んでしまっているので、息子の人生は自分の人生であり、言葉を変えれば息子は自分の延長でしかない。(p.82)
そしてテリーマンは上記のような自分の問題に向き合わないまま、自分の人生の延長戦として息子を闘わせようとしているわけですね。テリー・ザ・キッドを巻き込むな
この台詞を読んで少し安心しましたが、キン肉マンから万太郎への言葉も下に並べておきます。
ゆでたまご『キン肉マンⅡ世』28巻, 2005年, 集英社, p.194
もちろん状況が全然違うので比べません。たとえ弱音を吐いたとしても君は愛されているよ、少なくとも私は愛しているよ、という安心感を与えてくれるのが『キン肉マン』という作品だったもんね……としみじみしたいだけです。
私は『キン肉マンⅡ世』のアニメで『キン肉マン』を知って大好きになって、どっちが好きか訊かれたら迷わずⅡ世と答える方の人間です。
でも、成人後に読み返したときの違和感、2つの作品は価値観が180度異なっている部分があって、自分の価値観に合うのは『キン肉マン』だという確信、でもⅡ世が好きだという愛着、それらについて掘り下げていきたいと感じたのでこのようなブログを書いています。
勘違いされている気がしますが、私が好きなのは『キン肉マンⅡ世』です。
テリー・ザ・キッドに肩入れしすぎたせいでテリーマンのことが苦手になってきただけで……
なんだその「長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」みたいな感想は
「跡取りやったら何なん」
元々跡取りという存在や肩書に価値を感じていなければこんな感想は出てきません。価値を感じているというか、跡取りとは強くてめげないしょげない何かを成し遂げる存在である!という信仰ですね。家父長制です。
そんなんでも「パパの誇りだ!」されたら「パ…パパ~~ッ」しちゃうのがキッドの悲しさだよ
パパからの承認に飢えすぎている
これに関してはもうずっとそうだから何も言うことないですね
煽り文がこれ以上ないくらい煽ってきます。信念だけでなく技も伝えてほしいし、信念とかいうふわふわした概念でしか父親と繋がれなかったからキッドの精神状態は不安定だし、そもそも困難に立ち向かえないメンタルの弱さが目立つし、このままじゃ二度と困難に立ち向かわせてもらえないんだよ、『キン肉マンⅡ世』の連載は終わったから(違う!終わってない!第2部が打ち切りになっただけ!!)
「クローバーはそういうことやったんか、そう、うーん」
なんだろうね、綺麗に伏線を回収したはずなのに何ひとつモヤが晴れない、『闘将!!拉麺男』で言えば「筋肉拳蛮暴狼の弱点の巻」のような読後感は……
「なんかもうとにかく怖くて、とにかく怖いとしか言えん」
でも安心してください、8/10に公開されるベンキマン外伝はものすごく面白いので! みんな読んでね!
「それは本当の”面白い”? それともコロコロコミックの”面白い”?」
コロコロコミックの方です。
おわり
おまけ:テリー・ザ・キッド「パパ」カウンター
7回